「法隆寺は廃仏毀釈令を逃れるために仏像を明治天皇に献上した」の誤り
東京国立博物館の敷地内に「法隆寺宝物館」があり、法隆寺から1878年(明治11年)に皇室に献納された宝物300点あまりを収蔵しています。私はここで展示されている「菩薩半跏像」が好きで通訳案内士資格を取得する以前より写真を何度も撮りにいった場所です。奈良にある正倉院宝物は8世紀の作品が主ですが、東博の法隆寺宝物館のコレクションは飛鳥時代(7世紀)のものが多いのが特徴で重要な文化的、歴史的資産です。
「東博の法隆寺宝物館を訪日外国人にどう案内できるか」の課題を持って先日再訪しました。法隆寺宝物館の歴史を改めて調べてみると、ある人より以前に聞いた話しが誤りであることに気づきました。その話しというのは「法隆寺は廃仏毀釈令を逃れるために聖徳太子と所縁の深い天皇家に仏像を寄贈したんだ。廃仏毀釈と国家神道を進めようとする明治政府も明治天皇が受領したのでは手も足もでなかった」というものです。そもそも廃仏毀釈は明治政府が制定した法令ではないですね。そんな話を「なるほどね」と相槌を打っていた私ですが、法隆寺や日本の歴史をしっかりと勉強して活動している通訳案内士案内士の方々に馬鹿にされそうです。
「法隆寺宝物館」の歴史について私があらためて勉強したことを以下にまとめてみます。そこから導かれるのは廃仏毀釈と直接結びつけたくだんの話は誤りで、「明治政府による宗教政策が聖徳太子ゆかりの法隆寺さえも財政難に陥れた。明治11年、法隆寺より皇室に仏像を含む多数の宝物が献上され、それに対して皇室より下賜されたお金が法隆寺の窮状を救う大きな力となった」と言い換えるべきものです(法隆寺の歴史に詳しい方のコメントをお願いします)。
1868年(明治元年)、明治政府は神仏分離令を発します。これは神仏習合を禁じ神社から仏教的要素を排除しようとしたものです。仏教弾圧を直接の目的としたものではないとされますが、廃仏毀釈の風潮が強まり日本各地で夥しい数の仏像や寺院が破壊されました。明治政府の中心であった薩摩、長州出身者の地元では特に激しい廃仏毀釈が行われ、薩摩ではほぼ全ての寺院がなくなったとも言われています。奈良の興福寺でも2千体以上の仏像が破壊・焼却され、多くの僧侶が神官になることを強制されました。法隆寺では、鎮守社である龍田明神と天満宮は法隆寺の境内から離れていたので大きな問題とはされず、境内にあった総社明神、五所明神、白山権現は天満宮に遷祀され神仏分離令を乗り切りました。堂宇や仏像の破壊はさけられたと言われています。
1870年(明治3年)ころには全国の廃仏毀釈運動はほぼ終息します。しかし、1871年(明治4年)に発せられた上知令により社寺の領地のうち境内を除く広大な土地が召し上げられます。法隆寺も大幅に寺領を減ぜられ、深刻な財政難に陥ります。さらに1874年(明治7年)に明治政府は全国の寺の寺禄を10年間で全廃する政策を発します。法隆寺の伽藍は元禄期の大修理から150年以上が経過してかなり傷んでいましたが、その修繕もままならない危機に瀕します。
1878年(明治11年)に法隆寺は保有する一部の宝物を皇室に献納する決断をします(全国の廃仏毀釈運動が終息してから8年くらい経過しています)。57体の仏像、竜首水瓶、聖徳太子のご遺物を含む300点を超える宝物が献納され、金1万円が皇室より法隆寺に下賜されます。当時の1万円は現在の価値にすると数億円といわれています。御下賜金1万円のうち2千円は伽藍修理に、残りの8千円は公債購入にあてられました。公債の年利600円はその後の法隆寺の維持費用として用いられます。
献納された法隆寺宝物は帝国博物館(宮内庁所管)に所蔵され、今日の東京国立博物館に受け継がれています。もし法隆寺がこうした宝物を皇室に献納する決断をしなければ、聖徳太子ゆかりの品々は世界に散逸し、斑鳩の法隆寺自体も今日の姿から大きく違ったものになっていたに違いありません。
さて、訪日外国人に法隆寺宝物の歴史をどう説明したら「法隆寺宝物館で貴重な物を見れてよかった!」と感じてもらえるでしょうか?時間を要しそうですが、しっかりとスクリプトを練りたいと思います。ふ~。
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